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2018年2月 8日 (木)

練習行きたくなかった/田沢純一

 横浜育ちの右腕が、日本のプロ野球を経由せずに世界最高峰の舞台・米メジャーリーグに活躍の場を求めて、早くも10年目になる。

 メジャー通算357試合に登板しているマイアミ・マーリンズの田沢純一(31)が、高校野球界に向けて発信する提言は示唆に富んでいる。

 「アメリカって選手が楽しそうなんですよ。高校、大学の試合でもミスを恐れない。リーグが多くて「一発勝負ではないというのもありますが、伸び伸びやっているイメージがあるので。そういつところも(日本は)学べるんじゃないか」。

 翻って、自らの高校時代には「正直あまり思い出はないですね」と苦笑する。「日本のすごく怒れレながらやる高校野球というのが悪いとは思わないけど、もうちょっと(米国流と)歩み寄りができたらいい」。

 今季の推定年俸は700万ドル(約7憶7000万円)。2013年にはボストン・レッドソックスのワールドシリーズ制覇にも貢献した剛腕のルーツは、華々しさとは無縁の泥くさい高校時代であった。

 「入部した時に、みんな『おまえどこシニ?』とか言うんですよ。シニア出身だと位があがる。でも、こっちはそんなの知らなかったし」。

 中学の軟式野球部育ちだった田沢は、高校時代は練習についていくだけ大変だったという。

 「正直しんどかった。練習に行かなくていいのなら行きたくなかった。何でこんなに厳しいところに入ったんだろうっていつも思っていた」。

 「やっと慣れてきた」という2年春には球速は入学時の125㌔から15㌔ほどアップ。その夏に横浜商大を10年ぶりの甲子園に導く1学年上のエース給前信吾と遜色ないほどに力を伸ばしてきても、過酷な練習は続いた。全力で20㍍を15本走り、それを10セット繰り返す。「うちは横浜高校のセレクションを落ちたような人が来るところなので、横浜がアメリカンノック10本やったと聞けば、おまえらはじゃあ、その2倍みたいな」。

 きつかったのは体づくりのメニューだけではない。「一番覚えているのは、ストライク5球1セットで、ボールを1球でも投げたら(右翼と左翼の)ポール間を走って往復しなきゃいけない。それで戻ってまたすぐに投げる。はあはあ言っているのにストライク入らないですよね。プロでも全部が全部ストライクが取れるわけじゃない。選手に言っている監督でもそんなことできるとは思わないですよね」。

 2004年の神奈川大会準決勝。2年連続の甲子園まであと2勝に迫った横浜商大は前年決勝で破った横浜と再び、顔を合わせた。しかし、田沢と涌井秀章(現ロッテ)の注目の投げ合いは、あっけない結末となった。

 「涌井は2年の時からすごい有名なピッチャーで、雲の上のような存在。僕は自チームの監督に怒られるような存在。涌井がどうこうより、どうチームに迷惑を掛けないかと考えていた」。

 3番石川雄洋(現横浜DeNA)がけん引する横浜の強力打線につかまり、2回9失点でKO。そもそも、その夏に4完投していた右肩は限界に達し、接骨院から登板回避を勧められる中、無理を押してマウンドに立っていたという。

 「涌井のような存在がプロに行くんだと思ってたし、2回9失点の僕はダメだったら就職すればいいという感じだったけど、ENEOSが拾ってくれたんです」。

 卒業後は社会人野球の名門・新日本石油ENEOSで大きく力を伸ばし、4年後には注目のドラフト1位候補となった。活躍の場は日本のプロ野球かメジャーか-。米大リーグのレッドソックス入団を選ぶきっかけになったのは、即戦力としての評価以上に、潜在能力を存分に引き出す下部組織や育成プログラムが充実している点だった。

 やっぱり根拠のないことはしたくない。これは何のために必要だと明確になっていた方が取り組みやすい。どの高校もそうかもしれないですけど、とりあえず走るっていうのが高校時代に多くて、無駄なことをしたくないということが高校時代(の反省)で身につきました。

 ただ、やはり青春時代は懐かしい。メジャーリーガーとして成功を収めた今だからこそ、笑って語れる思い出だ。

 「高校時代は監督に怒られずに帰ることを目標にしていたので、ちょっともったいなかったですよね。高校野球は学校を背負ってみんなで一生懸命戦ういい舞台だと思いますし、今でも自分の母校が少しでも勝ってくれるとうれしいです」。(敬称略)

あそこまで伸びるとは

 「もう二度とやりたくない」と振り返る高校時代の過酷な練習を乗り越えた田沢。課された練習量は、指導者たちの大きな期待の裏返しだった。

 部長の松江光彦が田沢を初めて見たのは松本中2年の時。薄暗いブルペンで細身の右腕から放たれる球筋に思わず目を見張ったという。

 親交があった当時の横浜の部長・小倉清一郎に勧められて視察した千葉・松戸シニアの涌井との共通点も多かった。「同じような背格好で、同じような性格。硬式と軟式の差はあったけれどボールの質は変わらないし、コントロールも良かった。

 報告を受けた当時の監督、金沢哲男の見立ても同じだった。「(1年上のエース)給前よりも将来的には上を行く。鉛筆みたいな体をしていたけれど、ボールが(ホップして)噴き上がってくる。いいピッチャーになる要素を持っていた」。だからこそ一切の甘えを排除し、だれよりも厳しく接した。

 金沢が「一番怒りましたよね。でもそれだけ期待してましたから」という教え子は、世界最高峰の舞台へ羽ばたいていった。「涌井と違って無名の選手が立派なもんですよ。まさかあそこまで伸びるとは思わなかった。(教え子が)ここまで成長したのは最初で最後ですよ。(敬称略)

 たざわ・じゅんいち 横浜商大高-新日本石油ENEOS-ボストン・レッドソックス-マイアミ・マーリンズ。新日本石油ENEOS(現JX-ENEOS)でエースとして活躍。2008年には都市対抗大会を制覇し、最優秀選手賞を獲得した。翌09年に米大リーグのレッドソックスに入団し、セットアッパーとして活躍。13年には6年ぶりのワールドシリーズ制覇に貢献した。横浜市神奈川区出身。31歳。

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