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2018年6月 5日 (火)

「人生に補欠はないよ」/牛上義明&金沢哲男

 ベストゲームに歴史的大敗を選ぶあたりに、人生観が表れる。牛上義明(69)は陰になり日なたになり、横浜商大、そして監督の金沢哲男を支えてきた名物部長だ。

 1998年夏、横浜との東神奈川大会準決勝。松坂大輔(中日)を柱に全国春夏連覇を果たす横浜に、0-25で負けた。

 牛上は、この試合が「うれしかった」という。「何もできないうちを相手に、横浜は最後まで真剣に戦ってくれた」からだ。

 先発が打ち込まれ、2回で0-10。横浜からすればベンチの下級生に経験を積ませるにはもってこいの試合だったはずだ。

 だが交代は代走の1人だけだった。「屈辱的な負けでも、あの松坂の横浜が全力できてくれたということが、選手が人生を生きていく上での糧になったと思う」。野球で人生を説くのが、牛上らしさだ。

 コーチ、監督を経て34歳の83年から部長に就き、56歳で退くまで22年に渡って部を支え続けた。スパルタの金沢とは対照的な存在だった。「監督にはいつも、いくら怒っても逃げ道だけはつくってあげなさいと言っていました」。二人の歯車がかみ合ってこその、商大野球だった。

 やさしさの源泉は、商大の前身・横浜一商の選手時代にある。

 ずっと補欠だった。自身最後の夏にもらった背番号は15だった。エースの佐々木正雄(現横浜商科大学監督)が快投を続け、初の神奈川制覇。喜びもつかの間、ベンチ入りの14人から漏れた。その後は偵察役という裏方として甲子園で8強入りしたチームを支え、夏を終えた。

 日体大では学生コーチとなり、2軍を指揮。「レギュラーになれるかどうかみたいな子を支えられる指導者になりたいと思ってね」。卒業後、母校に赴任した。

79年、それまで16年間監督だった恩師・大蔵明からバトンを受け、監督となった。

 しかし、就任3年目の81年春に部内で上級生による下級生への暴行という思わぬ事態が起きた。校長の松本武雄が県高野連会長の職を辞任し、野球部は1年間の対外試合の自粛を決定した。

 牛上は「選手たちに厳しく接してしまったことが悪い方向に働いたのかな。子供たちにもっと向き合えていればよかった」と今も嘆く。この「事件」が牛上のその後の指導スタイルに大きく影響していった。

 金沢とのコンビで甲子園に3度進んだ。「金沢くんの采配は大丈夫なのかなって思う時もあった。サインを出さないときの方がシンプルに勝ってたきがするしね」

 それでも口出しはしなかった。93、2003年に神奈川を制した横浜との決勝も、「あのギャンブル的な野球がはまって、子どもたちの勢いが止まらなかったね」と、懐かしそうに笑う。

 部員100人超のマンモス野球部の部長として、ずっと大事にしてきた思いがあった。「野球で補欠はあるかもしれないけれど、人生の補欠にはならないよって伝えたかった」

鬼の猛練習で横浜撃破

 「何十年に1度しか経験できないようなゲームだった」。横浜商大を3度甲子園に導いた金沢哲男(60)は、25年前の夏をそう思い返す。

1993年夏の神奈川大会決勝だ。相手の横浜は田村仁(元ベイスターズ)や平馬淳(元シドニー五輪代表、現東芝監督)を擁し、優勝候補の大本命だった。

 「正直勝てるなんて思ってなかった。選手の質が違いましたから」

 ところが、番狂わせが起こる偶然が重なった大会中盤に天候が崩れ、3日間順延。7月31日に横浜スタジアムでライブ開催が決まっっていたため、決勝の舞台は川崎球場に移っていた。

 予感も当たった。「打ちそうだ」と初スタメンで8番に置いた主将笹間が2回2死2塁から放った左翼フェンス直撃の二塁打で先手を取った。

 試合後に、「ハマスタだったら外野フライで打ち取って横浜が勝っていたのに」と横浜部長の小倉清一郎が悔しがった一撃。金沢は「東芝時代から川崎球場ではよくプレーしたので、外野が狭いのは知っていた。小倉さんの一言に、その通りだと思いましたよ」と懐かしむ。

 順延の影響で準々決勝以降は3連戦となっていた。3連投のエース福田香一は疲れも見えたが開き直って投げて1失点完投した。

 「うちは脇役」と言い続けた金沢は、優勝インタビューで「勝ったチームが強いんです」とおどけてみせた。

 鎌倉学園出身。甲子園出場はないが、強打の捕手として鳴らし、早大から東芝に進んだ。

 83年、都市対抗大会を目前にした25歳の夏だった。母校の監督・福沢美美から電話があった。「今すぐ履歴書を持って来い」。横浜商大高が監督を探しているという。

 都市対抗で優勝し、その秋には迷うことなく商大に向かったが、生ぬるい空気が鼻についた。

 「勝利への執念が感じられない」。鍛えに鍛えた。朝練は「午前7時から、放課後は夜11時までボールを追わせた。

 自分は東芝でそれ以上をやらされていたので、当然だと思っていた。4部練習合わせて1日30㌔を走ったこともあった。「社会人がそれだけ必死になっていたのに、高校生が何を」と思っていたが、「頭がおかしくなるような鍛え方だったね」と振り返る。

 当時は横浜、桐蔭学園、横浜商(Y校)の時代。「うちに来るのは横浜に行けなかった子たち。せめて練習量で勝って、どこよりもやったという自信が必要だった」と鬼を貫いた。

 一方で、横浜の野球を躊躇なく採り入れた。横浜の名参謀・小倉に弟子入り。食事に誘っては「小倉野球」を吸収した。

 強烈な“恩返し”となったのが、2003年夏の決勝だ。成瀬善久(ヤクルト)、涌井秀章(ロッテ)、荒波翔、石川雄洋(ともに横浜でDeNA)らを擁してセンバツで準優勝していた横浜に、7-2で快勝したのだ。

 この試合では、センターががら空きになるような極端なシフトを敷き、攻めては初回からエンドラン、盗塁と動いた。終盤に横浜のミス絡みで決定的な3点を加えられたのは、試合巧者のお株を奪うような「揺さぶり」を続けた成果だった。

 「決勝のインタビューで、『横浜に勝つ秘訣がある』って言ったんです。完全なはったりでしたが、選手はその気になっったし、横浜も余計なことを考えたはず」

 ゲームの機先を制し、相手に「自分の野球」をさせない。一連の駆け引きを全てひっくるめ、金沢は「僕は『小倉野球』で横浜に勝ったんですよ」と笑う。

 15年夏を最後に監督を退いたが、今春から野球部顧問に戻った。「時代が変わって指導のスタイルも合わないかなと思うこともあるけど、練習が結果を呼ぶのは変わらない。野球は人間を育てる砥石でなければね」。背広姿でグラウンド見つめるその目は、どこか嬉しそうだった。

うしがみ・よしあき 横浜一商(横浜商大)-日体大。一商時代は遊撃手、日体大では3年時から学生コーチ。1979年から横浜商大高監督、83~2004年まで部長を務めた。県高野連副理事長などを歴任して神奈川大会を仕切った。07年には日本高野連から育成功労賞で表彰。「牛(ぎゅう)ちゃんの愛称で高校野球関係者に親しまれた。横浜市鶴見区出身。69歳。

かなざわ・てつお 鎌倉学園-早大-東芝。東芝時代は捕手と外野手を務め、1983年に都市対抗大会制覇。社会科教諭として横浜商大高に赴任して監督就任。89年に同校初のセンバツ出場を果たし、93年には夏の甲子園16強、2003年にも甲子園出場した。田沢純一(元マーリンズ)を育て、2015年勇退。現在は同校の生徒指導部長兼野球部顧問を務める。横浜市金沢区出身。60歳。

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